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  History and Culture of the Philippines  


  国旗
National flag


REPUBLIKA NG PILIPINAS
The Republic of the Philippines
フィリピン共和国

 1898年革命軍の反乱が勃発。6月12日に軍の指導者エミリオ・アギナルドが独立を宣言。
現在のフィリピン国旗は、この時に制定されたものです。

太陽の8光芒は独立運動に立ち上がった8州(パンパンガ、ブラカン、カビテ、リサール、ラグナ、バタンガス、ケソン、タルラク)を、
3つの星はルソン、ビサヤ、ミンダナオの3地方。
上の青は高い政冶目的、下の赤は勇気、左の白は平和を表し、戦時は赤を上に掲げる。


Revolt of 1898 revolutionary army broke out. Leader Emilio Aguinaldo military declared independence on June 12.
Philippines national flag of today is what has been established at this time.
(Pampanga, Bulacan, Cavite, Rizal, Laguna, Batangas, Quezon, Taruraku) 8glow of the sun is the 8 provinces that stood up to the independence movement,
Three stars 3 local Luzon, Visayas, Mindanao.
White courage, on the left represents the peace, blue above listed on the red red wartime government basis, of high under.

国歌 「ルパン・ヒニラン」
National anthem "Lupin Hiniran"

独立運動指導者エミリオ・アギナルドが、1898年に作曲家フェリペに依頼した愛国行進曲に、詩人ホセ・パルマが作詞。

Patriotic march who asked to composer Felipe in 1898
, the independence movement leader Emilio Aguinaldo is Lyrics poet Jose Palma.

歴史

14~15世紀  マレー人が度々渡来し、血縁中心の小社会(バランガイ)を形成。
1521~1898  1521マゼランがセブ島上陸。これよりスペイン統治時代。
1898~1945  1898キューバのスペインに対する反乱に端を発したスペイン・アメリカ戦争により、アメリカ統治時代へ。
1935       11月独立準備政府のフィリピン連邦政府が発足。
1942       日本軍がフィリピンを占領。日本軍は傀儡政権を樹立。
1946       7月4日完全独立国となり、フィリピン共和国初代大統領マニュエル・ロハスが就任。


 
リサール公園       日比谷公園リサール像1888年来日

 フィリピンは大小7000余りの島々からなる群島国家で、古くから海の交通の要所でした。すでに紀元前500年頃よりマレー人が度々渡来し建築や農業などの文化を伝え、中国やインドとの貿易も盛んに行われていました。13世紀になると日本人も渡来。中でも織田信長のキリシタン迫害を逃れこの地に渡った高山右近の話はよく知られています。


 1521年、世界一周の航海者フェルディナンド・マゼランがセブ島に到着しました。当時、すでにフィリピンでは13世紀末に渡来したイスラム教がミンダナオ島、スールー諸島そしてルソン島にまで浸透しており、各地にスルタンの統治するイスラム国家が建設されました。マゼランはポルトガル人でしたが、この世界一周航海はスペイン国王の命を受けていたので、セブ島近くのマクタン島に上陸するとこの地に十字架を立てるとともに、この島をスペイン領にすると主張。これに怒ったマクタン島の部族酋長ラプラプによってマゼランは殺害されました。それ以来スペイン艦隊が次々と渡来するようになり、1571年にはミゲル・ロペス・デ・レガスピが、当時マニラを統一していたラジャー・スレイマンを破ったことにより、300年にわたるスペイン植民地時代が始まったのです。


 フィリピン(Filipinas)という国名も、16世紀半ばに渡来したスペイン人によって命名されました。植民地時代、スペイン人はマニラの中心部に双璧を張り巡らし、その内側に統治政府の建物をはじめとするスペイン様式の住居を建て、本国での慣習やしきたりを踏襲し、さらにこれを洗練されたものへと発展させてきました。そのためスペイン統治下のフィリピンでは支配層とその他の人々の間に深い溝ができ、中国人はパリアン(parian)と呼ばれる居住区に、またマレー人はパシグ川両岸に居を構えて独自の社会・文化を築き上げていったのです。

 一方でスペイン人は、イスラム教が支配するフィリピンをカトリック教に改宗させるため各地に教会を建て、宗教的支配の拡張にも努めました。その結果、現在ではミンダナオ島、スールー諸島の住民や山岳民族を除き、大半のフィリピン人はカトリック教を信奉しています。18世紀に入るとスペインの長期支配にようやくかげりが見え始めました。その背景にはイギリスの産業革命やスエズ運河の開通などヨーロッパ近代化へのあゆみ、そしてフィリピン国内での中国人を中心とした中産階級の誕生がありました。これらの人々の中には富や社会的地位を得て、上流階級の仲間入りするものも現れ、またその子息はヨーロッパに留学し、学者や芸術家になるなど文化面でも大きな影響を与えるようになったのです。ヨーロッパの自由思想にふれ、帰国後、植民地支配に苦しむ国民に革命の必要性を訴えたのも彼らでした。

 フィリピンの国民的英雄ホセ・リサールもその1人でした。リサールは詩人、小説家、画家、医者と多方面にわたってその才能を発揮、自作の詩や著作の中でその革命思想を訴えました。そのためスペイン当局は彼を危険人物とみなし、1896年12月30日、現在、公園(リサール公園)となっている地で銃殺刑に処しました。リサール公園には彼のモニュメントが建てられています。リサールの死によって、フィリピンの自由への胎動はかえって激しさを増し、1898年には革命軍の反乱が勃発。6月12日に軍の指導者エミリオ・アギナルドが独立を宣言。現在のフィリピン国旗は、この時に制定されたものです。

 しかし同年、キューバのスペインに対する反乱に端を発したスペイン・アメリカ戦争により、フィリピンの独立は再び奪われ、植民地支配の歴史へと再度投げ込まれることになるのです。マニラ湾での戦闘に敗れたスペインはフィリピンの統治権をアメリカに譲り、1899年パリ条約でこれが認められることになりました。今度はフィリピンがアメリカの支配下に置かれることになったのです。アギナルドをはじめとする革命指導者は新たな指導者に激しく抵抗。その戦いは2年余りにおよび、1901年ようやくアメリカはフィリピンにおける民政に着手しました。

 しかしフィリピン人にとり、アメリカの統治はスペインの支配とは異質のものでした。当時のアメリカ大統領マッキンレーは、フィリピンが自らを統治できるようになるまでは、フィリピン人を教育しなければならないと考えていました。また、アメリカ本国では政権が交代するたびにフィリピンはフィリピン人に返すべきだとする理想主義とアメリカが支配するべきだとする植民地主義が交互に台頭していました。フィリピンは独立達成のためアメリカ議会へのロビー活動を続け、1934年3月にようやく、10年後にフィリピンを独立させるというタイディングス・マクダフィ法を制定させることに成功。これにより1935年11月には独立準備政府のフィリピン連邦政府が発足。初代大統領にマニュエル・エル・ケソンが就任しました。

 しかし、太平洋戦争勃発とともに、1942年には日本軍がフィリピンを占領。平等主義と10年後の完全独立を約束したアメリカを支持するフィリピン国民の抵抗にもかかわらず、日本軍は傀儡政権を樹立。その結果、スペインからアメリカと400年近く続いた植民地支配から、フィリピンがようやく独立を果したのは1946年7月4日、フィリピン共和国初代大統領マニュエル・ロハスが就任しました。

 共和国大統領にはロハスの後、キリノ、マグサイサイ、グラシア、マカパガルが就任。1965年にはフェルディナンド・マルコスが登場して、20年余りの長期にわたり政権を掌握。独裁色を強めて国民の批判を招くことになりました。このような状況の下、1986年2月にいわゆる2月革命が起こり、同25日に元上院議員であった故ベニグノ・アキノ氏夫人コラソン・アキノ氏が大統領に就任。その後はフィデル・ラモス、ジョセフ・エヘルシト・エストラーダ、そして2001年2月より、14代大統領にグロリア・マカパガル・アロヨ氏が、2010年6月、ベニグノ・アキノ大統領が就任しています。


 マクタン島 ラプラプ像
       バターンの日本軍1942年春


最近の紛争と問題

※ ミンダナオ紛争:ミンダナオ島を中心とするフィリピン南部に多く住むイスラム教徒による、フィリピンからの独立を目指す武装闘争。

※ 南沙群島領有問題:南シナ海に浮かぶ南沙群島を巡る、周辺諸国の対立。フィリピン、中国、台湾、マレーシア、ベトナム、ブルネイの6つの国が領有権を主張。


宗教

 フィリピンはアジア唯一のキリスト教国です。全人口の90%以上がクリスチャンで、内83%はローマン・カトリックに属しており、フィリピン独立教会派(1902年にグレゴリオ・アグリパイが中心となってローマ教会より独立した)および、プロテスタント最大の宗派であるイグレシア・ニ・クリスト派がそれぞれ4%を占めています。そして残りの2%のキリスト教信者はバプティスト、メソジスト、モルモン、エホバの証人などの宗派に属しています。スペイン人がフィリピンに渡来するようになった16世紀には、ミンダナオ島やスールー諸島にはすでにイスラム教が完全に根付いていたため、さすがのスペイン宣教師もこれを改宗できず、これらの島を中心にイスラム教徒は今も全人口の約8%を占めています。一方、仏教徒は1%強にすぎず、各地に散在するネグりスト族などのいわゆる少数民族はスペイン人渡来前の原始宗教(アニミズム)を信仰しています。アニミズムは幽霊やお化けにまつわる迷信の類を多く伝承しており、それがカトリック化したフィリピン社会に溶け合って、独特の様相を呈しています。

 セブ サントニーニョ教会


民族

 フィリピンの人口は現在約9500万人。人口構成では全人口の半数以上が20歳以下で青少年層の多いことが特徴です。65歳以上の老人はわずか7%にすぎません。フィリピン人はカトリックの影響が強いこともありますが、もともと無類の子供好きといわれ、それが年率約2%という人口増加の大きな要因になっています。人口増加に対処するため、フィリピン政府は家族計画の普及に努めています。マニラの人口は約200万人で、周辺都市のパサイ、ケソン、カロオカン市などを含めたマニラ首都圏(メトロ・マニラ)の人口は約1200万人以上、実に全人口の8分の1近くが首都圏に集中していることになります。

 現在のフィリピン国民の主流は、紀元前500年から紀元1500年にわたり、フィリピンに渡来してきたマレー系民族、ネグリスト族、中国人、スペイン人の混血とみられています。この他にルソン島やミンダナオ島、スールー諸島などには約600万人の少数民族が住んでおり、これらの部族的集団の多くは北部文化自治共同体事務所(the Office for Northern Cultural Communities)あるいは南部文化自治共同体事務所(the Office for Southern Cultural Communities)から生活援助や技術的支援を受けながら、自立の道を模索しています。フィリピンでは、今なおアメリカの影響が強く残っていますが、その一方でフィリピン人の個性ある生活も随所に見うけられます。フィリピン人は一般的に陽気でお祭り好き、楽天的なタイプが多いようです。そして異文化の吸収の巧みさがあげられます。



言語

 多様な民族集団が多くの島々に点在するフィリピンには、約80もの言語があり、タガログ語はその中でも最もポピュラーなものです。タガログ語は1936年に公用語とされ、大戦直後の1946年には憲法にもその旨が制定されました。しかしタガログ語以外にもセブアノ、イロカノ、ヒリガイノン等多くの言語が存在するこの多言語国家での公用語の役割に反対するものも多く、1973年にはタガログ語を基礎としながら他のフィリピン言語も取入れたピリピーノ語が正式に公用語とされ、1978年以降は学校でも国語として教えられています。もう一つの公用語である英語は、1946年にアメリカから独立した以降も、政界や経済界を中心に広く用いられており、ほぼフィリピン全域で通用します。

 一方、スペイン語は当時の教育そのものがいわば富裕層の特権であったため、主に政治や経済界への普及にとどまりました。近代に入り1968年には高等教育の必須科目からもスペイン語の授業はなくなり、今は一部上流階級の人々が母国語として使っているにすぎません。なお1992年に行われた調査によると、80%以上の人々がピリピーノ語、63%が英語を使用。そして、61%の人々がピリピーノ語と英語を併用しているとの結果がでました。ただし家族との会話でどの言語を使っているかというと、これはまさに多種多様で、タガログ語27.9%、セブアノ語24.3%、イロカノ語9.8%、ヒリガイノン語9.3%、ビコール語5.8%などの順になっています。



習慣

 フィリピン人は社交的で、誕生日や結婚記念日、クリスマスなどは友人、知人を招待してよくパーティーを開きます。国民の約90%がクリスチャンであるこの国では、イースターとクリスマスは最大のお祝い。とくにイースターの1週間はほとんどの会社、官庁は休みとなり、各地でキリストの最後を復元した野外劇が演じられ、またキリストに扮した若者が竹製の十字架を担いで町をねり歩く風景が見られます。クリスマス前後、12月半ばから1月上旬にわたって各種のミサが行われ、各家の窓にはパロルと呼ばれる竹と紙、ビニールで作った大きな星が飾られ、街にはニッパヤシの馬小屋が作られ、キリスト生誕を模した飾りが組み立てられます。

 12月24日のクリスマスイブには深夜のミサを終えた後、親戚や知人などが集まり夜が明けるまで一緒に過ごすのが習慣となっております。結婚式は教会でミサを行うことから、早朝の結婚式がよく見かけられます。いきおい披露宴もブランチ、もしくはランチを囲んでということになります。一方、葬式は自宅か教会で行われ、3~4日ここに遺体を安置します。親戚や親しい友人などは夜を徹してお祈りをし、また霊前で死者が好きだった遊びなどをして天国に送り出すのです。



教育

 スペイン統治時代の教育は極めて限定的なものでしたが、アメリカの統治下で高等教育、ならびに一般初等教育の制度が全国的に整備されるようになり、現在フィリピンの識字率は男子95%、女子94.3%(95年ユネスコ統計による)に達しています。教育期間は、アメリカが制定した7-4-4制の初等教育の年限を1年短縮、6-4-4制を採用。義務教育は7歳から13歳までの小学校6年間で、新学期は6月から始まり翌年3月で終了します。読み、書き、計算の基礎的技能をしっかりと身に付けさせること、フィリピン人としての自覚を育てることを最優先にしています。授業は基本的に英語(地域によっては、教育の効率化のため、その土地の言語が採用されることもある)で行われ、ピリピーノ語は国語として教えられています。

 中等教育は4年間で、大学進学には、4年生の9月頃に行われる全国一律の大学入学試験、さらに希望する大学の試験を受けなければなりません。高等教育(大学)の教育期間は、医学・薬学部は9年、法学部8年、獣医・歯学部6年、工学部5年、その他4年となっています。授業にはピリピーノ語と英語が使われており、今後も社会科学や人文科学系の科目を中心に、ピリピーノ語による授業が増えてくるものと思われます。また、フィリピン人だけでなく、外国人留学生にもピリピーノ語6単位(2科目)の取得が必要とされます。フィリピンには810の大学があり、うち私立が634校を占めています。国立ではケソン市の本部を中心に各地に分校を持つフィリピン大学、マラウィ市のミンダナオ国立大学、また、私立では1611年に創立され東洋最古の大学と言われているサントトーマス大学、アテネオ大学、デ・ラサール大学などが有名です。なお公立大学の授業料は、親の収入によって3段階に分けられています。




国土

 フィリピンは7107の島々が南北1850km、東西1100kmに点在する群島国家で、その総面積は約30万km2。首都マニラのあるルソン島が最も大きく10万4683km2、次いでミンダナオ島9万4596km2、パラワン島1万4896km2、パナイ島1万2327km2、ミンドロ島1万245km2と続きます。1km2を越す島は500余りにすぎません。人が住んでいる島はわずか2000しかなく、約2500の島には名前すら付いていません。フィリピン群島は便宜上、ルソン、ミンダナオ、ビサヤ、パラワンの4つの地域に大別されています。ルソン地域には近くのマリンドゥケ、ミンドロ島が含まれ、ミンダナオ地域はスールー諸島を包括しています。ビサヤ地域はルソンとミンダナオ地域を結ぶ形でパナイ、ネグロス、セブ、ボホール、レイテ、サマール、そしてマステバの7つの島々を包括。パラワン地域にはその他の約1700の島々が含まれます。海岸線の総延長は1万8000km、自然港は60ケ所、美しい海水浴場が島のいたる所にあり多くの観光客を魅了しています。フィリピンで最も高い山はミンダナオ島のアポ山2954m、2番目がルソン島北部にあるプログ山2930mです.火山が約40ケ所あり、うち活火山はルソン島南部のレガスピ近くのマヨン火山。そして1991年6月に600年ぶりに大爆発を起こしたルソン島中部のピナツボ火山。カルデラ湖をもつ火山としては世界最小のタール火山など17ケ所にのぼります。また、鉄、銅、ニッケル、硫黄、大理石などの鉱物資源に恵まれ、肥沃な土壌ではバナナやパイナップル、輸出用の切花などの栽培が行われています。



自然

 フィリピンには各島固有の特徴ある動植物が多く、これまで哺乳類では200種、鳥類580種、爬虫類200種、両棲類100種が確認されている。中には1、2箇所の島でしか発見されない動植物が多いものの、生物相的にはルソン島を中心とした北部グループ、ミンダナオからビサヤにかけての南部グループ、そして、パラワン島を中心とした西部グループに分類されている。北部グループは中国南部や台湾で見られる動植物と密接なつながりを持ち、その多くはモンスーンや海の潮流によって運ばれてきたと思われます。一方、南部グループにはオーストリアやニューギニアにその源を発するものが多いため、インドネシアの島々を伝わって、はるばるフィリピンにたどり着いたと見られ、西部グループはマレーシア半島やボルネオ島がフィリピンと陸続きであった時代に渡って来たものと推定されています。

 国花 サンパキ゜ータ

植物
 松、ヤシ、竹そしてシダ類にいたるまでのその数は1000種以上にのぼり、特徴はフィリピン固有のものが多い。1980年代に大量の伐採が行われたにもかかわらず、まだ熱帯雨林が多く残っており、巨大なツル植物と木シダが密生するジャングルに咲く900種類以上のランの花はまさに圧巻です。また、黄色の花を咲かせるナラ(narra)はフィリピンを代表する木の一つで、甘い香りがする花サンパギータ(sampaguita)はフィリピンの国花となっています。

 
国鳥 ハリボン Philippine Eagle

動物
 フィリピン固有の動植物は世界最小の赤シカの仲間ネズミシカ、体長わずか1センチの食用魚シナラパン(sinarapan)、こぶし大の霊長類ターシャー(tarsier)など小型の生物が多いのが特徴です。中には絶滅の危機に瀕している生物も少なくありません。ハリボン(haribon)と呼ばれる世界最大のワシ、フィリピンイーグルもミンダナオ島の森にわずか100羽の生存が確認されるのみで、その将来が危惧されています。南国特有のオウムはパラワン島を中心に、また色鮮やかなチョウはセブ、ミンダナオ、パラワン島に多く見られます。蚊やゴキブリが多いのもフィリピンの特徴の一つです。蚊はフィリピン人のペットとして大人気の小型ヤモリの格好のエサとなっているのです。そして、フィリピンを代表する動物はなんと言ってもカラバオ(carabao)という水牛で、農民の友(farmer's friend)と呼んでとても大切にしています。


気候

 フィリピンは雨期と乾期があるといっても、年間の平均気温が26℃(マニラ)と高く、一年中夏服で過ごすことができます。しかし、12月から1月は朝冷えする事もあるので、長袖の上着が必要となります。また、北部ルソンの山岳地帯は日本の秋と似た気候で、カーディガンやセーターもほしいところです。夜間でも蒸し暑いフィリピンでは、バロンタガログと呼ばれるバナナ繊維やパイナップル繊維で織った薄手の長袖のシャツが、風通しもよいので男性用礼服として愛用されています。ポロタガログと呼ばれる半袖のものもあり、両者とも前身頃に美しい刺繍が施されています。一説によるとこれはスペインによる植民地時代、ズボンの上にシャツを出し、さらにその上からコートの着用を強制されたことに対するレジスタンスの証とも言われています。当時の人々はコートの下のシャツにさまざまな刺繍を施すことによって、フィリピンの気概を護っていたようです。女性も公式の場では、肩の上に大きく広がった袖の特徴的なドレス、テルノを着用しますが、通常は欧米のファッションと変わりません。


生活

 フィリピンは雨期と乾期があるといっても、年間の平均気温が26℃(マニラ)と高く、一年中夏服で過ごすことができます。しかし、12月から1月は朝冷えする事もあるので、長袖の上着が必要となります。また、北部ルソンの山岳地帯は日本の秋と似た気候で、カーディガンやセーターもほしいところです。夜間でも蒸し暑いフィリピンでは、バロンタガログと呼ばれるバナナ繊維やパイナップル繊維で織った薄手の長袖のシャツが、風通しもよいので男性用礼服として愛用されています。ポロタガログと呼ばれる半袖のものもあり、両者とも前身頃に美しい刺繍が施されています。一説によるとこれはスペインによる植民地時代、ズボンの上にシャツを出し、さらにその上からコートの着用を強制されたことに対するレジスタンスの証とも言われています。当時の人々はコートの下のシャツにさまざまな刺繍を施すことによって、フィリピンの気概を護っていたようです。女性も公式の場では、肩の上に大きく広がった袖の特徴的なドレス、テルノを着用しますが、通常は欧米のファッションと変わりません。



政冶

政治機構
 フィリピンは立憲共和制をとり、1987年に定められた
憲法には「フィリピンは民主・共和国である。主権は国民に存し、すべての統治権は国民より発する」と定められているのです。この新憲法はその政治、統治機構に関しアメリカ式の大統領制を採用しており、権力の濫用が行われないよう行政・立法・司法の三権が相互に牽制し合う規定が設けられています。大統領は国民の直接選挙によって選ばれ、任期は6年(再選禁止。副大統領の任期は6年、3選禁止)となっています。大統領は行政権、国軍統帥権、戒厳令発動権、条約締結権、法案拒否権、裁判官任命権など種々の権限を与えられています。また、その職務を補佐するための内閣の閣僚を任命することができますが、任命に際しては上下両院の任命委員会の同意を得なければなりません。

 立法府は二院制で、上院の定員は24名、すべての全国区から選出され、任期6年、3選禁止となっています。下院は定員250名以内で、うち20%は法律の定めるところにより「政党リスト制」を通じて選出され、残りは憲法別添の定める選挙区(小選挙区制)より選出。任期は3年、4選禁止となっています。なお政党リストは労働者、農民,都市貧困層、少数民族、婦人、青年などの各セクターから選出されます。

司法制度
 司法機関は最高裁判所と下級裁判所から構成されており、これとは別に公務員が起こした事件を審理する公務員弾劾裁判所(サンティガンバヤン)があります。地方行政区は76州からなる12の地域と、首都であるメトロ・マニラに分けられ、各州は州都と複数の自治体から構成され,地方自治体はさらにバランガイと呼ばれる村組織からなっています。またミンダナオのイスラム地区には、憲法の規定にしたがって自治地域が設けられています。バランガイという言葉は紀元前500年から紀元1500年にかけて、フィリピン諸島が次第に統治された時代に源を発します。その頃、バランガイとは90名もの人を運ぶことができる大型海洋船を意味し、フィリピンに移住するマレー人によって使われていたものでした。

軍事
 フィリピンの軍事費は約11億ドル(2001年) ちなみに 周辺国 台湾104億ドル シンガポール43億ドル インドネシア9億ドル



経済

経済構造 
 第二次世界大戦後、フィリピンは他のアジア諸国に先駆けていち早く工業化に着手し、1970年の工業化率(製造業部門付加価値額/名目GDP)は23.2%。これは日本、台湾に次ぎアジアでは3番目に高い比率でした。しかし78年の第二次石油危機以降、景気は長期にわたり低迷を続け、この間に高度成長を遂げた近隣諸国に大きく水をあけられる結果となりました。フィリピンの経済再建はアキノ政権の中期フィリピン開発計画(1987-1992年)に始まります。同政権は、世界銀行からの経済復興融資の条件として提示されたマクロ経済の自由化を断行し、輸入自由化、税制改革、外資の導入、政府系金融機関の改革などを行うとともに、農業、教育、保険を中心に公共投資を強化していきました。92年6月に発足したラモス政権は、アキノ政権の路線を継承していくことになりますが、クーデター未遂事件などの政情不安によって海外からの直接投資が影響を受けたことにかんがみ、まず投資環境の整備に取り組みました。国内の治安対策を強化するために、特別委員会を設置するとともに、92年にはエネルギー省法、翌年には電力危機法を制定。同時に海外からの援助も本格化し、この資金によって短期間で運転可能なガスタービン・プラントを完成させるとともに、既存設備の改善を行い、94年半ばには長年フィリピンを悩ませていた停電問題もほぼ終息に向かいました。

 その後、アメリカや華僑などからの海外資本の導入により、大型の石油火力発電所の建設計画も順調に進んでおり、中期的に見ても電力問題は解決するものと見られます。この間、1993年の実質経済成長率は2.4%と大幅に改善するとともに、マクロ経済の不均衡も次第に是正されました。経常収支赤字のGDP比は95年に4.3%と縮小。総合公共部門の財政収支は、96年には、はじめて黒字を計上しました。また外貨準備を96年6月に100億ドルの大台に乗せ、対外債務残高の対GDP比は50%を切る状態まで改善しました。しかし、98年7月以降のアジア経済危機の影響を受け、98年第1四半期の実質GDP成長率は2.5%(前年同期5.4%)、実質GDP成長率は1.7%(同5.5%)と、フィリピンの経済成長も大きな曲がり角に立たされています。フィリピン経済は海外から多額の短期資金が流入してこなかったこともあり、近隣諸国に比べて経済危機の影響はそれほど大きくありませんでした。しかし、これに端を発したインフレ率の上昇、財政収支の悪化、直接投資の伸び悩み、そして、経済成長の減速などはフィリピンの経済にとって大きな懸念材料となっています。このような状況の下、高金利に伴う企業収支の悪化と金融機関の不良債権比率の動向、財政収支バランスの維持、貿易収支の動向、為替切り下げによる物価上昇圧力、農業生産の同行は今後のフィリピン経済を占う重要なポイントになるものと考えられます。

産業構造
 
フィリピンの産業構造は農業・漁業・林業などの第一次産業の比率が高く、就業人口などでも全労働者の46%を占めています。フィリピン米として知られている米は最も主要な農産物で、栽培方法や品種の改良に努めた結果、1976年より供給が消費を上回るようになり、一部は輸出にまわされています。しかし第一次産業の対GDP比率が約21%であるのに対し、第二次産業は約32%、商品輸出の8割以上を占めるなど製造業分野の発展には近年めざましいものがあります。対外貿易では従来、コプラ、マニラ麻、タバコ、サトウキビ、バナナ、パイナップルなどの農産物、鉄、ニッケル、硫黄、大理石などの鉱物資源が大きな比重を占めていました。しかし最近はエレクトロニクス、衣類などの工業産品が主要な輸出品目となっており、アメリカ、日本、ECさらにはASEAN諸国などに輸出されています。観光も今後期待される産業の一つで、外国人観光客は年々増加し、この傾向は今後も続くものと見られています。これを受け、フィリピン各地には高級リゾート施設の建設が続いており、観光業の発展が今後の経済発展のかぎを握るまでになっています。


文化

フィエスタ
 フィリピン人はお祭り(フィエスタ)好きで知られていますが、それは今に始まったことではありません。16世紀にフィリピンを訪れた宣教師は、子供の誕生から結婚、葬式とことあるごとに人々(もちろん女性も参加していました)が、1日も空かさず一月もの間お祭りさわぎをしているのを見て、呆気にとられたと記しています。実際、フィリピン人にとってお祭りのない人生など、それこそ退屈で味気ないもの。1年の稼ぎを全部つぎ込んでも惜しくないほどフィリピン人にとってフィエスタは大切なものなのです。フィエスタはもともと異教徒のお祭りでした。極彩色の衣装をまとい、バッカナリアン(Bacchanalian)・ダンスを踊るアティアティハン(パナイ島・カリボ)のお祭りを見れば、その由来も理解できるでしょう。アティアティハンの流れをくむビサヤ諸島などのフィエスタはかなり組織化されており、オリジナルの持つ熱狂と野性的な歓楽は失われているものの、フィリピン人が愛して止まない、目を見張るようなダンス、歌、そして野外劇が見られます。

 ケソンのルクバン(Lucban)で行われるパヒヤス(Pahiyas)も、さまざまな色彩に彩られるお祭りで、各家は花や果物、そしてライス・ウエハースで作られたアッサンブラージュでいっぱいになります。もともとは古代の収穫祭だったのが、後に農民のよき理解者であった聖イシドロをお祭りするものとなりました。マリンドゥケ(Marinduque)の四旬節の仮装行列は、キリスト教に改宗したローマ提督ロンギナス(Longinus)に由来するもので、ローマ時代をほうふつさせる衣装と木掘りのマスクで登場。特に人をからかうような目つきで、あご髭をたくわえ、口を半開きにしたコーカサス人のマスクは有名です。一方、サンタクルーサン(Santacruzan)は、5月に行われる祭りの中で最もエレガントなものとして知られています。祭りの行列は、9日間にわたり、真の十字架(True Cross)を探すセント・ヘレナを演じ、とっておきの衣装(テルノ)で着飾った街一番の美女が花を添えます。近代都市マカティいでも、フィエスタにかける人々の情熱は例外ではありません。人々はネクタイをゆるめお祭りの輪の中に飛び込んで行きます。パンパンガ(Pampanga)にパスクハン(Paskuhan)村というところがありますが、ここでは1年中クリスマスを祝っています。それほどフィリピン人はお祭りが大好きなのです。

 パナイ島ディナギャン

ダンス
 フィリピンの民族ダンスは驚くほど多様ですが、大きく非クリスチャン系とクリスチャン西欧系2つのグループに分けられます。フィリピンの民族ダンスは歴史的にも、また社会学、心理学および宗教学の研究にとっても欠かすことのできないもので、そこに文化発展の過程が具現化されているのです。しかし、これは特定の地域がその伝統を守ることによってはじめて可能となったのです。西欧文明から隔離された民族ダンスは、ヒスパニック化される以前のフィリピンの伝統文化を探る上で、計り知れない価値を持っています。フィリピン奥地に住むネグリート、ハヌヌー、バタクなどの少数民族は、スペインの征服を受けず、西洋人の渡来後も古くからの伝統を守ってきたグループです。彼らの部落を訪れると、まるでタイム・トンネルをくぐり抜けたかのように、何世紀も前の世界に戻ったような気がします。そして、永久に失われてしまったかもしれない文化遺産を彼らがいかに大切に護ってきたかを改めて認識するはずです。フィリピン・モスリムは、これら少数民族の中で最も洗練され、また高い文明を持つグループです。
伝統的に勇敢な彼らは派手なお祭り、極彩色の高価な衣装を好み、そしてスペインの女性をも花嫁にと強奪したほど美しい女性が大好きです。モスリムの若者は幼いときから戦闘の訓練を受けますが、これらの武術はそのダンスの中で見事に表現されています。

 キリスト教と西洋の様式を広めるため、スペイン人は異教徒やヒンズー教の流れをくむ偶像、それまであった儀式やしきたりのすべてを禁止しましたが、フィリピン人にとってダンス、歌そして歓びがいかに大切かを知ったスペイン人宣教師は、彼らに新しいダンス、歌そして歓びを与えることにしたのです。もちろん、これらは古来から伝承してきたものとは大きくかけ離れたものでした。以降、フィリピン古来のダンスが持つ野性的な側面は失われ、全体的にソフトになるとともに、聴衆を意識したものとなり、また新しいヒスパニック様式の中でより優雅になっていきました。スペインの300年余りの登場を生み、人々は限られたダンス・テクニックの中で彼ら自身のスタイルを発展させていったのです。アジアを起源とする体全体でバランスをとりながら踊るダンス、あるいはワルツ、ポルカ、マズルカ、パサドブレなど西洋のダンスにも新しいスタイルが生み出されていきました。ステップは簡略化され、それがさまざまなダンスの中に脈絡なくとり入れられていきました。タイ、ラオスそしてインドにも伝わるバンブー・ダンスも次第にそのスタイルが変わり、スローな三拍子で踊られるようになりました。

 セブ シヌログ

美術
 ジュアン・ルーナ(Juan Luna)とフェリックス・ヒダルゴ(Felix Hidalgo)は、19世紀の最も有名な画家で、とくにルーナの傑作「Spoliarium」は1884年のマドリッド展覧会で金賞を受賞しました。20世紀半ばには、フェルナンド・アモルソロ(Fernando Amorsolo)、ビセンテ・ディゾン(Vicente Dizon)、あるいはビセンテ・ママナンサーラ(Vicente Manansala)等が国際的に広く知られるようになりました。フィリピン美術のレベルの高さはマカティの小さな画廊、あるいはエルミタの観光地をのぞけば一目瞭然。原始的な画から写実主義まで、ほとんどあらゆる種類の絵画が揃っています。


文学
 10世紀までフィリピンでは、古代マレー語を基礎とする文字が使われていました。しかし、スペインの宣教師達に破壊され、現在その内容を確かめることはできません。その後訪れた宣教師は、スペイン語を教えるのではなく、元々の言語にアルファベットを取入れました。1800年代までは、植民地支配の下、スペイン語の出版物は印刷前に全内容が検閲されました。しかし、経済的な発展とともに、文学の発展を望む声も大きくなりました。1847年、本格的な印刷機が国内に持ち込まれ、さらに、業務用の印刷機が普及すると、短編の詩、および、長編の韻をふんだ詩(12音節で4連の「アウイット」と、音節のみが8音節の「コリド」)は、富裕階級の間で非常に一般的なものになりました。アウイットもコリドも十字軍を背景に、伝説的な英雄や騎士の戦いや冒険の物語を題材にした、中世スペインの韻をふんだ長編詩に基づいています。これ以前の1800年代初頭、フィリピンで最も名高い詩人といえば、多くの詩を残したホセ・デ・ラ・クルスで、彼はフランシスコ・バラグタス(1788-1862)に大きな影響を与えました。バラグタスはこの国で最初に愛国心を歌った詩人で、タガログ語を書き言葉として普及させた人物です。バラグタスは1812年、24歳で学校を卒業した後、アウイットやコリド、そして、喜劇(現代とは異なり、道徳寓意劇のようなもの)を書いて生活していました。

 彼の代表作「Florante at Laura」は、1835年頃、恋敵によって刑務所に入れられたときに書かれた作品で、その後、バラグタスが亡くなる頃まで、最も人気のあるタガログ語の詩となったのです。1800年代後期、フィリピン人自身のアイデンティティーへの意識は高まっていきます。それは、スペイン語を話す人々にも、また、タガログ語を話そうとする人々にも同様で、両者とも「東洋の真珠」と称される自国への愛情を持っていました。バラグタスも1820年~30年代にフィリピンの先住民の政治活動の最前線にあったといわれています。この間、彼は「Mohamet at Constanza」という舞台劇を書きます。ギリシャの独立戦争に基ずくものですが、主な登場人物は暴動における実在人物でした。この劇は、時を同じくした南米のクリオールの暴動のため、扇動的だとされることを危惧したバラグタスにより、上演されなかったようです。この作品の要素は明らかに「Florante at Laura」に反映されています。この詩のストーリーは、愛しあうFloranteとLauraが、Lauraの父である王の座を奪おうとする嫉妬深いAdolfoによって引き裂かれ、ひどい仕打ちを受けながらも、後に再会し、Lauraと結婚して新しい王にならんとするAdolfoを退けるというものです。この詩は、暴君の残虐性、正しい教育の必要性、人種や主義を超えた基本的な人間の同一性を含んでいます。彼の初期の劇の要素は、つまり、圧倒的な政府、悪い行い、間違った信念、質の低い文学への反抗でした。1840年、牢獄から開放されたバラグタスは14年後、再び理不尽な投獄をされ、1860年に釈放後72歳で亡くなりました。彼の子供の一人、フランシスコ・バラグタスは後に詩人になり、タガログ語を確立し、バラグタスとともに豊富な作品を残したホセ・リサールに多大な影響を与えました。リサールは強制的にマニラを追われた際、「Florante at Laura」の本を握り締めていたといわれています。

 シリマン大学生

音楽
 フィリピンの音楽について語るとき考えなければならないのは、この国の人々は本来陽気でリズミカルな詩やダンスが大好きな民族であること。そして、この国の歴史的背景です。それは、300年以上にもわたるスペイン統治とその後の独立、そして20世紀初頭のアメリカの植民地化、再度の独立という歴史です。スペインはキリスト教と西洋文化を広めるために、フィリピンの宗教、儀式、しきたりなどを排し、代わりに、新しい「歓び」として歌やダンスを導入しました。しかし、長い統治は人々を独立革命へとかりたて、リフォーム・ムーブメント(世直し運動)が始まりました。この運動をする人々は自らをリフォーミストと称し、戦闘的革命家達とは一線を画して、実力よりも言葉による力を信奉していました。そしてこの頃クンデマンという、表向きはラブソングですが、実は祖国への愛を歌った歌が流行したのです。クンデマンにはクミンタングという戦いの歌、そしてこれから生じたアウイット(文学)の両者と同じリズム、メロディーが反映されています。クンデマンはもともとクングヒンディマン(そうでなければ・・・)という意味で、それが略され、クンデマンと言われるようになりました。このような時代を反映する音楽家は多くいますが、なかでもホセ・リサールの名をあげない訳には行かないでしょう。彼もまたリフォーミストの一人であり、数々のクンデマンを作詞しています。

 リサールは1861年6月19日生まれで、幼少の頃は病弱で、家庭的、肉体的な問題を抱えながら詩を書くという生活をしていました。成人後も国外退去などの問題がありましたが、22ケ国語も解する文化人、医者、言語学者であり、また、絵画、彫刻、詩、小説をはじめ作詞、作曲もする音楽家でもありました。そんなリサールも音楽をはじめた頃から、音楽は向かないなどと友人たちから言われていたのです。しかし、後にフルート独奏で昔の彼を知る人々を驚かせるほどになりました。リサールはまぎれもなく多彩な芸術家で、革命中には自由のシンボルになっていたのです。その彼が1896年に反逆罪(クンデマンの詩を作ったこと)で処刑されました。その前後にも多数の人々が犠牲になりましたが、この処刑がきっかけとなって一気に革命へ突入していきました。そして、1898年の独立記念日を迎えるのです。20世紀初頭には再び、アメリカの植民地となりますが、その間もクンデマンは絶えることはありませんでした。フィリピン国民の心の根底には、この歴史的背景をもった革命の歌、民族愛の歌クンデマンがあるといえるでしょう。また、フィリピンでは現在、アメリカやイギリスのポップミュージックも大変人気があり、彼らのポップミュージック・バンドも東南アジアを中心に根強い人気を持っています。また、その一方で、近年はフィリピンの古い音楽に対する認識も高まり、竹製のフルート、ドラ、あるいは木製のドラムといった伝統的楽器を用いて、古いメロディーに新しい息吹を吹きこむ動きも見られるようになってきました。(参考資料Mga Awit ng Himagsikan)